そして、湯殿から上がった月夜は昌也が帰ってくるのを待った。というより昌也が来る
まで布団に入って大人しく寝ていたというのが確かだろう。貧血が酷いらしい。
「で、まだなのか?」
 月夜はいぶかしげに聞いた。昌也が出て行って半日ほど経っている。もう戻ってきてい
いはずだ。嵐の表情にも焦燥が見え始めている。
「昌也兄だから他の術者にやられたってことはないだろうが……」
 眉をひそめてそう言う嵐だが本当にそうなのだろうか。嫌な予感ばかりが体について回
る。インフェクションではなく野生の勘だ。
「……とりあえず、何もないことを祈るな」
 その言葉にふっと違和感を感じた。夕香も同様のようで月夜の顔を見て首を傾げていた。
 何かを口にしようと思ったそのときだった。月夜と嵐が同時に立って顔を見合わせ頷き
玄関に急いだ。それにつられて夕香と莉那が行くと玄関には三匹の犬がいた。どれも普通
の犬よりかなり大きい。犬神だった。
「何用」
 月夜が鋭く言い放つと犬神は書状をぽとりと落としてすぐに消えた。嵐がそれを拾い呪
が掛けられていないかを確認してから月夜に手渡した。
「……」
 さっと目を通すと月夜は舌打ちをした。そして、低い声音で言った。
「……兄貴が一族のものに、さらわれた」
「一族って」
「俺を捕まえる為の方便だ。だから宗家就任は嫌だといっているのが分からないのか」
 月夜は深く息を吸って怒りを押さえるように少し息を止めて溜め息をついた。目を閉じ
てまた低い声で続ける。
「……明日中に俺だけが、本家に乗り込まないと兄貴が殺される」
「そんな、できるの?」
「手を汚さなくても犬神を使って呪を施せば……簡単にできるだろう。あの爺ならな」
 そんな事を言う月夜の目には嘲りと憎しみが混ざった、呪いを家業にする者に相応しい
ような負の感情に彩られた目をしていた。その目を見て、夕香はやはり月夜も呪いをかけ
られる一族なのだと思い知った。
「兄貴は犬神を使えない。そのためにこの一族に回された。犬神を持たないということは
呪いに拮抗する物を持たないということだ。つまり、その呪いどおりに、殺される」
 その語尾に一気に場の空気が冷えた。特に嵐の表情が強張った。莉那もその空気を呼ん
だのか真っ白になっている。月夜は書状をぐしゃぐしゃに握りつぶして夕香はそれを見て
みるしかできなかった。
「あたしたちは行っちゃ駄目なの?」
「……俺だけで来いと言うことだ。式神なら、連れて行ける。そこら辺をどうにかできれ
ば……」
 月夜は思い出したように夕香を見た。夕香はまた動物扱いされるのかと溜め息を吐いて
肩をすくめて頷いた。。
「夕香なら、連れて行ける。というより、ついてきてくれるか? 恐らく、宗家就任の儀
もついてくるだろうから天狐がいたほうがいたほうがいいかもしれない」
「という事は?」
「そう言う事だ」
 月夜はそう言うと目を伏せた。嵐が悟った事が読めていない夕香と莉那はきょとんと目
を見合わせた。
「……宗家就任の儀では狐の血を啜るとだけいっておく」
 その先は言いたくないと月夜は顔をそむけた。夕香は目を見開いた。
「じゃあ?」
「可能性がある。親父は啜るのを拒否して本家の古狸に追われていた。俺も啜るのはいや
だからな、お前たちには話していなかったが、前に、ここに来た時、接触があった。従わ
なければ死だとね」
 暗い笑みを浮かべる月夜に夕香は何かを感じた。ぞくりと背中を冷たい何かに撫でられ
たような悪寒。
「死ぬ気はない。あいつ等を殺してやる」
 低い声で綴られた宣言に全員の顔がこわばった。月夜は何事もなかったように袂を翻し
て背を向け外に出た。
「夕香、行くぞ」
 そう言われて、夕香は月夜の背を追った。玄関に行くと嵐に振り返り目で何かを言った。

嵐は頷いて顎で早くいけとしゃくった。その背を見送りながら、嵐はふっと違和感を覚え
た。月夜といえどもあれほどの言動を、表に出しただろうか。
 それに気づいた頃には夕香たちの背はもう見えなくなっていた。
 月夜の背を追った夕香は共に藺藤一族の屋敷を目指して走っていた。走っていける距離
かと聞かれれば否、だが、行った事のない夕香がその不自然さに気づくこともなかった。
「来るぞ」
 その声とともに複数の犬神、姿形大きさ全てが異なる犬神が何匹も二人を囲んでいた。
いつかの二人のように互いに背を預けて犬神と対峙した。
「引っかかったな、馬鹿狐」
 急に月夜の声が変わった。背も低くなり夕香と同じぐらいになった。あっと思ったとき
にはもう遅かった。夕香の周囲一メートルのところ辺りから格子がいきなり生えてきた。
 何時入れ替わったのだろうか。月夜であった姿はいつの間にか黒い布で顔を覆った、黒
子のような装束に身を包む月夜よりふた周りほど小さい人になった。
「まったく、獣という物は扱いやすい物だな。天狐といえどもただのケダモノだな」
 格子に呪でもかかっているのだろうか。夕香の姿がだんだん狐に変わってきた。胡桃色
の毛並みを持つ美しい天狐の姿に。



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